ゴッホとゴーギャン展に行ってきました。

この二人だったらゴッホ派のしらすじゃっこです。

ちなみに今回最初に驚いたのが、音声ガイドに小野大輔さんと杉田智和さんが出てきたことです。声優さんだ!

 

時系列でみていくと、ゴッホのまともな状態から精神を病んでいく過程が作品にも表れていてぞっとしますね。

病みつつある時期の作品には、絵具をそのまま厚く塗りたくるような手法と原色に近い派手な色使いが顕著になるのですが、人間の内的な部分がむき出しになるようなおぞましさに恐れを感じると同時に、そこにあるバランスを欠いた感じに引き込まれてつい見入ってしまう。ただ、その作品を部屋に飾りたいとは思えないです。狂気がそこからあふれそうで。

 

ゴーギャン近代主義に疲れて芸術に安らぎを求めた人だと思っています。

素朴なものを求め、想像の世界を描き続けて。

ゴッホの狂気じみた絵を見続けると「うへえ」となるので、たまにゴーギャンの作品を見るとちょっと癒されます。「わーきれいーおもしろいー」とシンプルな感動だけで見られるので。

 

ゴーギャンも後世で作品が評価されるような優れた芸術家ですが、ゴッホよりはまだまともに生きていけた芸術家なのでは。

ゴッホは自分の中の膨らんだ芸術性に呑まれて、それに踊らされて死に至ったと私は考えています。

一緒に行った人は「彼が精神を病んだ明確な理由がわからない」と言っていましたが、原因は人生の出来事におけるストレスではないように思います。しいて言えば彼が芸術家として優れていたからであると。

 

私は「芸術は本来人間に必要がないもの」「ある意味神の領域」という思想を勝手に抱いています。偉大な芸術家に精神を病んだり、早世する人間が多いのは、人間が及ぶ以上の範囲に深く潜ろうとしたことへの罰というか、そこにあるものに毒され続けてしまった結果だと思います。普通の人間ならつかめない部分まで芸術をとらえてしまったがゆえに、その分毒も多く受けることになってしまう。

 

創作活動は人間の慰めになりますが、それは芸術の持つ毒が少量で薬になっている状態であり、慰め以上、芸術を自分のモノにしたいと考えたとき、創作者はいかにその毒に殺されないように付き合っていくかを問われるのではないでしょうか。

 

私がゴッホを好きなのは、その戦いが作品から伝わるからです。

天災であるがゆえに悩まされた狂気と、なんとかそれの手綱をもちつつ人間の世界に表出し続けた彼の生涯の苦痛。

最後は自殺してしまい、それは不幸な幕切れなのかもしれませんが、そこで彼はやっと楽になれたのかもしれないですね。

 

しらすじゃっこでした。

音の襲来

精神的に摩耗して、神経が高ぶった夜は、まれに五月蠅さに悩まされる。

最初は手足からしびれ、動けなくなる金縛りから始まり、その後聞こえるはずのないものが聞こえてくる。私の場合はたくさんの人の声だ。耳を通して聴いている感覚だが、幻聴なので正直頭から聞こえるのか、耳から聞こえているのかはよくわからない。

駅の構内にあふれるような人のさざめきが、音の塊となって私の鼓膜を圧迫する。

声が重なり、蠅の羽音のような煩わしさを感じさせる。

身をよじって金縛りを解けば、その音も波が引くようにさあっと消えていくのだが、眠りに落ちそうになるとまた襲ってくることも多い。

面倒な夜を過ごしたくないため。私は自分の精神衛生を保つ努力をする。

 

創作でもあり、実話でもあり。しらすじゃっこでした。

同類を見つけた時の喜びと自己嫌悪。

しらすじゃっこです。

 

家庭の問題に困っている人の愚痴を聴くのが嫌いではありません。

親との問題に悩み、「憎い。でも親だし。愛してほしい。いや愛されてきたはず。逃げたい。けどほっとけない」とジレンマに陥りぐるぐるしている人の隣で、その迷いを見つめるのがいやではありません。

むしろ、そのそのもがく姿が人間的で、愛おしいです。悪趣味なのは承知しています。

 

その理由は昔も自分が同じようなぐるぐるの中にいたからです。

もしかしたら、今も渦中にいるのかもしれませんが。

自分と似た境遇にいる人を見つけて、仲間を見つけたような気がして嬉しくなるのです。そして、かつて自分が感じた苦しみや悶えを思い出し、その人が少しでも楽になればいいと思いつつ話を聴くのです。

 

同時に、私はそんな自分自身を嫌悪します。

個人の苦しみなんて一つとして同じものはないのに、要素だけみて勝手に同類だと思い込んで、傲慢にもその苦悶の理解者ぶるとはなんともあさましいじゃないか。

誰かの問題と自分の問題を重ね合わせるなんて、一歩間違えば共依存の危険を孕んでいます。

自分が助けてほしかったからって、その欲求を他人に投影するのはどうなんだ。

 

割り切れない二律背反を抱えながら、それでも彼や彼女が抱える親との関係の迷路を話されてしまったら、私は聞き入ってしまうのです。

 

個人の備えには限界があるから、社会規模でセイフティネット作っといたほうがよくない?

しらすじゃっこです。

 

昨今予測のできない社会ですよね。そして楽観視はできないような。

日本だと、天災は起きるし、不景気の出口は見えないし、格差は広がってるし。

世界だとイギリスのEU離脱もトランプ氏当選も予測を裏切った結果が出ましたし。

そこから政治経済にも影響が波及するのでしょう。

 

社会的弱者の支援が、ニュースなどで取り上げられることが増えました。

貧困問題、ワーキングプア奨学金返済。自分の専攻のせいで偏ってる問題ばっか出てきますけど。

 

この支援の問題に、自己責任論がよく登場します。

苦しい境遇は自己責任なんだから、支援を必要はないってことです。

 

そう言える人の多くは、きっと社会的「強者」でしょう。

ただ、いつもこれを聞いて、彼らは自分が社会の落とし穴に落ちて、自分が弱者になることを毛ほども想像していないのだろうと思ってしまうのです。

 

残酷ですが、現在の世界は真面目に生きていたからと言って、生活が保障され続けるわけではないです。弱者になるのは、自業自得の方もいるでしょうが、人生の中で不幸なトラブルにあってしまった人もいます。

私は、境遇が似てる人だからといって、まとめて「人生怠けてたんだろ」とはとても言えません。

 

誰しも弱者に簡単に落ちる世界。私は今の世界をこうとらえています。

そして、その世界で弱者になると、個人の努力だけでは這い上がれない状況に陥ります。這い上がれるのは、能力や人脈など、落ちても恵まれた資本が残っている少数の人で、さらにそれを使いこなすことにも運の要素などが絡んできます。

 

個人で非常時に備えたところで、たかが知れています。その備えで何とかなるのは社会の落とし穴じゃなくて、道に転がるただの石ころレベルの災難です。

 

弱者への支援を切り捨てる考えを持つ方はいらっしゃるでしょうが、それがまかり通って優しくない社会ができた中でその方が弱者になったら、今度切り捨てられるのはその人です。

そんな目に合ったら悔しいでしょう。助けてくれないなんてひどいと思うでしょう。

でも、その道筋を作った一人はその人です。

 

自分に余裕がある側のうちに、弱者を包括する余裕がある世界に向けて少しずつ舵を切っておく。そうしておけば、もし自分が困ったときも、世界を頼れるかもしれません。

 

理想論ですが、自分の首を絞めかねない世界より、自分の立場が変わっても大丈夫な可能性が高い世界のほうが安心でしょう。

音楽による自分境界線。

しらすじゃっこです。

外出にイヤホンを忘れるとテンションが5割増し下がります(当人比)。

基本的に電車や歩きの移動はスマホで音楽聞きながらです。

耳が悪くなりそうだけどやめられない。

 

引きこもり性質なもんで、外でも自分の世界にこもっていたい。

外は人間のざわめきだとかいろんな音のノイズが飛び込んでくるけど、イヤホンすれば遠くなって、普段聞きなれているお気に入りの音が、一定に世界に流れるから落ち着きます。

 

イヤホンから五線譜が流れて、帯のように身体を取り巻いて世界に私のスペースを作ってくれます。

どこかに出かけるとき、一番楽しいのは移動時間かもしれない。

本当は移動時間は、みんなで時間つぶしするより景色と音楽で一人の世界に没頭したい。

自分がどこにいるか視覚化できるアプリありません?時間的な意味で。

「殺伐としたスレに○○が」っていうAAのシリーズあるじゃないですか。

 

殺伐としたスレにシラスが!

 

「蒲焼にするとおいしいよ!」

 

\チンアナゴ/

 

っていうの考えたからAA作って誰か。

 

しらすじゃっこです。

 

私は、時間感覚が希薄です。

自分が今一年の中のどこにいるのか、一月の中のどこにいるのか、今日一日にあとどれくらい活動時間残っているのかとかを、感覚としてつかむことが苦手なのです。

だから課題の締め切りなどがあっても、いまいちあとどれくらい時間が残されているのかピンとこなくて、ぎりぎりに必死こいてやるマン常習者です。

 

バーチカルタイプの手帳とか使ってなんとかやりくりしてるんですけど、気を抜くとそれ自体見るのを忘れるというね。オーマイガッド。

 

だからスマホのアプリ、あるいはウィジェットで設定したら自分に残された時間とか見てわかるのがほしいんですよね。

ちなみに、時限式爆弾みたいな数字のカウントダウン方式じゃなくて、円グラフとか数直線みたいなやつが理想。図でわかるやつ。

 

どっかにないかなあー。

インターン参加したら難関私大しかいなくて5日間死んだ顔してた私の話でもする?

しらすじゃっこです。

ずっと昔の夏の話ですけど、某企業のインターンシップに行ったことあるんですよ。5日間。

それで、グループワークとかするんですけど、自己紹介がね。つらかったわ。

A「W大です」B「K大です」C「H大です」私「○大(W,K大などと比べてランク下)です」

あれ?トップの有名大ばっかり、つーか同じ大学の人しかいなくね?みたいな。

たまたまかと思ったんですけど、3回グループ変わって同じ現象起きたから絶対参加者選ぶ段階で偏りあったと思う。

「えっ、あ、○大なんだー」って微妙に気まずい雰囲気出さないで皆さん、泣いちゃう。私だってまさかトップ大の群れに投げ込まれる羊になるなんて思わないできたから!

正直針のむしろでした。意地悪されたとかではないけど、その空間にいるのがなんか申し訳ないったらありゃしない。

何より、がっつり学歴フィルターあるのにそれがないように愛想よくふるまってる企業に、なんというか、いくら差別していないように見せて評価を守るためといえど、卑怯なまねするやんけ、と。

タイトル通り死んだ魚の目で乗り切りましたけどね!

 

学歴フィルターの存在は知ってたし、ある程度覚悟はしてました。でも、いざ目の前に突きつけられると傷つきますねー。

 

唐突ですけど、ある環境の雰囲気って、マジョリティが決定すると思うんですよね。

例えば、採用されたのがK大の人が多かったら、社風もその大学出身者の空気になっていくみたいな。

 

んで、それまであんまり社風とか気にしてなかったんですけど、もしインターンに参加したその企業に入ったら、きっと大部分が有名大の子で、私みたいなのはマイノリティになるんだよなあと思って。

そしたら、彼らが作る風土に、なじめない思いをすることもあるのかなあと。このインターンみたいに。

 

就活において、学歴フィルター的に下剋上してトップ企業でハイレベルな人たちに食いついていくのってかっこいいと思うんですが、自分と同じくらいのレベルの人と仲良く仕事するのも精神衛生上悪くないかもなあと思ったしらすでした。